2014年3月31日月曜日

タッチーフィーリー(Touchy-Feely)が多くの学びを与えてくれた

Interpersonal Dynamicsという授業がある。これはGSBで一番有名な授業といっても過言でないクラスであり、通称タッチーフィーリー(Touchy-Feely)と言われている。12人のクラスメートと2名のファシリテーターの計14人(ティー・グループ:T-Groupと呼ぶ)で椅子を丸く並べて、座る。そして、語り合う。それだけ。他に机も、パソコンも、パワーポイントもとにかく何もない。ただ語り合うだけ。話し合うだけ。そして一回のクラスの長さは6時間である。そんな授業だ。

この授業で重要なのは、「感情」について話し合うこと。ある人の発言や行動に対して、自分はどのように感じたのかを正直に話す。そして、何故そのように感じたのかを丁寧に説明する。そして、それを言われた側は、さらにそれを聞いてどのように感じたのかを返す。そんなことを繰り返していく。ときに、ある感情を引き起こした原因となっているそれぞれの過去の出来事、経験などにも話が及ぶ。こうした出来事や経験は、とてもプライベートなもので、普段仲のよい友達同士でさえもなかなか打ち明けることがないようなとても深い内容を含む。こうしたプライベートな話題を話すこともあり、T-Groupの一番最初のセッションで秘密保持について取り決めを行い、このグループで聞いたことは絶対に外では話さないことをメンバーで誓い合う。

また、このクラスには色々な“仕掛け”がある。例えば、12人のメンバーを影響力があると思う順に並べ替えるというようなことを、メンバーを交代しながら全員がやらされる。人に順位をつけて、それを“並び替える”という行為を通じてあからさまに表現するわけだから、こんなことを実社会の中でやったら、人間関係上、大きな問題を引き起こすだろう。T-Groupの中でももちろん色々な感情が渦巻くのは同様で、例えば、多くのメンバーに一番下に位置づけられた人(すなわち最も影響力がないと判断された人)などはクラスの後に泣いてしまったりする。このような活動(Activity)を行った後の話し合いは、非常に盛り上がり、嬉しかった、傷付いた、怖かったなどの感情を率直に語り合い、ぶつ合う。

このような活動を通じて、このクラスでは、他人の感情に敏感になり、自分のどんな行動や発言が、他人にどのような影響を及ぼし、どのような感情を引き起こすのかといったことを真剣に考えるようになる。また、自分自身の感情についても、それを冷静に観察する癖がつき、特に怒ったとき、興奮しすぎているときなどは、それを一旦なだめてから、効果的に相手に伝えていく感覚を学んでいく。こうしたことは、特にリーダーとして何かを成し遂げるとき、そしてだからこそ他との協力が必要なときに、極めて重要な姿勢である。スタンフォードMBAで一番有名なクラスがこのタッチーフィーリーであるということは、リーダーという言葉に対するGSBなりのポリシーを表しているように思う。

英語の壁を考慮せずとも非常にチャレンジングなこのクラスであるが、実際、私はこのクラスをとることをとても恐れていた。果たしてみんなの話を聞き取り、有意義な議論ができるだろうか、自分の感情を正確にそして冷静に伝えることができるだろうか、他のメンバーの学びのプロセスの邪魔になってしまわないだろうか、6時間も英語を聞きながら集中力を保てるだろうか、と。最初のセッションで14人で円になって座ったとき、とても緊張し、一方で感慨深い気持ちになったことを今でも鮮明に覚えている。GSB受験の時のエッセイでも言及したこのクラスに、遂に自分も参加することになったのかと思った。だから、クラスからの学び自体も非常に尊いものであるが、私にとっては、このクラスを無事に終えられたという事実自体も大きな自信になっている。インターナショナルなメンバーと英語を通じて、そして自分の感情を率直に表していくことで、非常に強い人間関係を構築することができた。この経験は私の人生の中でも、いつも背中を押してくれる自信となると思っている。

⇒別ポストにて学んだ内容を個別に紹介しています。







世界の“天井”を見ることで安心感を得た

これまで書いてきた通り、スタンフォードMBAには様々な意味で能力の高い人たちが集まってくる。だからこそ、プログラム開始当初、周りのクラスメートと自分を比べて、劣等感を感じたり、落ち込んだりしたのはすでに書いた通りである。

しかし、自分をマネジメントできるようになり、自分を好きになり、そしてOpenでいることができるようになると、こうしたクラスメートたちに対する認識も少し変わっていたように思う。

一見、輝かしい学歴、職歴を持っているような人でも、よくよく観察してみると、もがきながら生きていたり、悩みながら生きていることに気付く。自分の興味の持った分野のインターンやフルタイムの仕事のオファーをなかなか獲得できずに面接に奔走する人、マッキンゼーで極めて優秀な業績を残しながらも自分の本当の興味が分からず将来に対して悶々とする人、ある程度の虚勢を張りつつ投資家コミュニティーに入り込みネットワークを作ろうとしている人・・・。

人生を生きるのは誰にとっても難しいのかもしれない。みんな必死で“ぎりぎり”のところを生きている。そんな感覚を、クラスメートや先輩を見ていて感じることができた。また、一緒にクラスでの課題をこなしていると、マッキンゼーやゴールドマンサックス、またGoogleなどの名だたる組織の出身者でも、的外れなことはたくさん言うし、効率が悪く時間がかかることもしばしばある。

そんなことから“絶対的な頭の良さ”というものは信じるに足らないもので、結局は人生とは、自分が好きなもの、情熱を注げるもの、フォーカスを置けるものをどう見つけて、それに対してどう努力していけるかの問題なのだ、と思った。そうした発見は、やはりここGSBがある意味においては世界の天井であるからなのだと思う。そんな世界の天井で、そうかやはり自分の好きなことを見つけて、それに集中していればよいのだ、というような安心感にも似た気持ちを持つことができた。

自分はポルシェではなくトヨタカローラである

私は弱い人間であると思う。「あなたの弱みは何ですか?」と聞かれると、何と答えてよいか分からなくなる。緊張しやすいし、人とのコミュニケーションは苦手な方だし、そのくせ見栄張りで、自分のことばかり考えて、そして他人を羨むことだって多くある。でも、そんな自分だからこそ、自分の弱さや“癖”を知り、マネジメントしていくことが、人一倍重要なのだと思う。

「自分はポルシェではなくて、トヨタカローラである」と最近言っている。GSBに多くいる本当に優秀で様々な能力に秀でている人たちはまさにポルシェのようだと思う。それに対して、どちらかといえば平凡で、何か尖ったところもなく、秀でて頭がよいわけでもない自分は、ポルシェと対比してトヨタのカローラのようであると思う。でも、今はそんな自分に劣等感などの嫌な感情は持っていない。それよりも、目的地に向かって真面目に運転していこうと思っている。いくらポルシェでも運転がうまくなければ意味がない。目的地と逆の方向に走ってしまったら、意味がない。もちろんレース場でレースをしたら負けるだろう。しかし、人生には色々な生き方があって、レース場でレースするシチュエーションの方が少ない。ポルシェでしか行けなくて、トヨタカローラでは行けない場所などはそうそうはないと思う。だから、丁寧に、上手に運転して、時には止まってきちんと整備をしてあげて、そうやってゴールに向かってカローラで行こうと思っている。自分自身をマネジメントする重要性はこうした発想ともつながっているのだ。

翻って、留学当初、私は自分がポルシェだと思っていた。世界最難関のMBAに合格して、意気揚々とし、恥ずかしながら自分には無限の可能性が開かれているとさえ思った。しかし、今まで書いてきた通り、MBAプログラムが始まってからは、苦悩の連続だった。そして、自分をポルシェと思い込み、思いっきりアクセルを踏み込みすぎてエンジンを壊してしまったり、レース場でスピード勝負をしたら負けっぱなしだったり、大きな駐車スペースに停めてみたら実は車体が小さいことに気付き恥ずかしい思いをしてみたり、そんなことを繰り返していたと思う。自分をマネジメントするには、まずは自分を知らなければならない。そして、自分を知るということは私にとって、「自分はポルシェではなくカローラなのだ」と知ることだと思った。カローラをポルシェと思って運転していてもうまくいくはずがない。自分はカローラであることを認識し、それに適したスピードで走り、それに適した運転の仕方をし、それに適した駐車スペースを見つけることが重要である。車そのものの性能はもう変えられないかもしれないけど、それをどうコントロールするのか、どうマネジメントするのかは、いくらでも向上の余地がある。そして、自分の強さ、価値は実はこのマネジメントにあるのではないかと思うのだ。今までの人生で自分の弱さを嫌というほど感じてきた。そして、GSBに来てそれがより強いものになった。しかし、日々の様々な努力、工夫で心地よく生きれるようになってきた。それは、自分の弱さを見つけ、心から認めることができるようになったことで、それをマネジメントすることができるようになったからだと思う。私が自動車に例えて、トヨタカローラであると見つけたように、自分はどんな人間なのかを知ることは、人生を良いものにしていく上で、一番の基礎になるべき部分だと思う。



MBAが自分を変えた

MBA受験を本格的に志しはじめたのも、企画部に異動してからだと思う。企画部にいるというステータスを利用して、社内選考にも通りやすいのではないかと思ったのだった。そして、実際に通った。今思い返せば、あの頃の自分は、みなの羨むようなステータスやポジションを渇望していたのだと思う。それなしには、まだ自分が知らないなにか“素晴しい”世界に自分の人生をもっていけないのだと思った。企画部に行きたかったのも、MBA留学をしたかったのも、きっとそのせいだと思う。自分には常に何かが足りないと思っていた。いわゆる華やかな世界にいる人たちを常に羨んでみていた。“隣のしばふ”ばかり見ていた。自分に何かが足りないのではないかと思う劣等感、その何かを持っていそうな人への羨み、そんなものが自分を強烈に突き動かしていたのだと思う。だから、向上心だけはあったのだと思う。本来、向上心とは、何か達成したいものがあって、そのために必要だと思うことに発揮すべきものだ。一方で、あの頃の自分が持っていたのは、達成したいものがあるわけではなく、とにかく劣等感を消すため、そして他人への羨みを消すための向上心であったと思う。

そんな、ある意味では“曲がった”向上心に突き動かされた自分が、世界最難関と言われるスタンフォードMBAに合格し、入学することができた。この結果は、今思えば、自分の劣等感や羨みの強さを表していたのだと思う。まだ知らない世界を見てみたいという思い、世界のトップを見てみたいという思い、そしてそこに行くことで自分の劣等感が消えるのではないかという希望、そんなものが自分を強烈にドライブしていたのだと思う。そして今、そんな当時の自分も肯定的に見ることができる。なぜなら、こうしたドライブがなければ、今の自分はいないと思うからだ。今、自分は人に対して劣等感を感じることも極めて少なくなったし、何よりそれがゆえに、自分を丸ごと好きでいられるようになった。本当に自分の好きなことは何なのか、純粋な熱意を持つとはどういうことなのか、そんなことを考えて生きることができるようになった。私の中での“変化”とは結局のところ、こうした変化なのだ。

“Change lives, change organization and change the world.”スタンフォードMBAの学生なら何度も口にする言葉、世界を変えるのだというポリシーを鮮明に表した言葉。実は、自分の“変化”もまさにこの言葉に沿ったものだったのだと今、強く感じている。何かを達成したいとき、まずはじめに変えられるもの、そして変えなければならないものは、自分自身、そして自分自身の人生なのだ。そして、それができて始めて、周りとの関係、そして遂には世界を変えることができるようになるのだと思う。

2014年3月19日水曜日

大学生時代もいたって“平凡”だった


ただの”大学生”だった

私としては大変な努力をして、某有名私立の理工学部に入学することができた。

ただ、ここでも、学校の勉強に打ち込んだわけでも、サークルに生活をかけたわけでも、何かビジネスの立ち上げにチャレンジしたわけでもなく、普通の“大学生”として、能天気に過ごしていたと思う。

アルバイトもTSUTAYAのレジや、家庭教師、塾講師くらいのものだった。至って普通である。


冴えない就職活動

物理学科にいた同級生の9割はそのまま大学院に進学をするなか、私には物理の世界は難しすぎる、私のいるべきところではない、などと考えて、格好だけの就職活動をした。

もっと正直に言えば、特に楽しくない物理という世界、地味で、いわゆる“おたく”ばかりいて、そして華やかでない世界。そんな世界から抜け出して、“華やか”な世界に入るために就職するという道を選んだのかもしれない。

だからこそ、本当の意味での興味、熱意がないまま、経営コンサルティングの会社、商社、銀行などをとにかく受けた。

・・・でも、どこも受からなかった。

今考えれば当然のことである。その頃自分に誇れるものが、あえてあったというならば、一応、有名大学出身です、ということくらいだ。本質的な自分の価値という面には全く目を向けていなかった。

そして、たまたま受かった会社に就職することにした。人によっては一流企業と言ってくれるし、給料もいいみたいだし、親は喜んでくれたし。

そんな、自分の興味や熱意といったものとは全く別のところで、自分の進むべき道を決めていたのだと思う。


パイロットになりたかった

そういえば、大学三年生の頃、何をきっかけにしてかは忘れてしまったのだが、強烈にパイロットになりたい、と思い立ったことがある。

絶対になってやろうと思った。

飛行機の整備士だった親父は昔、パイロットになりたかったということも知っていた。そんな影響で、小さい頃から飛行機は本当に素敵なモノだと思っていた。

特に役に立たないとは分かっていても、航空無線通信士の資格取得、気象予報士の勉強(こちらは資格は取れなかったのだが)、英語の勉強、そして日々の健康管理など、色々なことをした。

航空大学校の視力の制限が厳しく、当時の自分には受験資格がなかったため、富山にある視力をよくすると有名な針治療にも一度、行ったことさえある。

・・・しかし、視力は良くならず、残る選択肢として、JALとANAの自社養成パイロットの採用試験があった。これに全力で臨もうと思った。

結局、試験には受からずにパイロットにはなれなかったのだが、今思えば、大学生時代の一番の思い出というと、このパイロットなるという目標に向かって挑戦したときの記憶ではないだろうか、と思う。

2014年3月18日火曜日

特に特筆すべきこともない幼少時代を過ごす

世界最難関ともいわれるスタンフォードのMBAプログラムに来て、こんな変化を味わうことなど、少し前の自分には想像もできなかったことだ。


平凡な田舎生まれ、幼少時代の喘息

私は千葉の田舎生まれ。保守的な両親のもと平凡な家庭で育ち、正直、飛び抜けて優秀だったわけでもないし、何かみんなを惹き付ける特技があったわけでもない。

女の子に特別モテたわけでもなければ、都会で育った若者のように若いころから渋谷で騒いだこともない。

それどころか、私の幼少時代は、暗かった・・・。

小児ぜんそくを煩い、とても弱い子供であった。小学校のころは学校をよく休み、毎日ぜんそくのくすりを飲み、親に頼ってばかりだった。

遠足のときに、いつもと違うリュックサックを背負っていくことに抵抗感を覚えて、朝家に引きこもって他の登校生の姿をチェックしたりするくらい、弱気で暗い、そんな子供だったように思う。

五つ上の兄の真似ばかりして、自分で何かを始めたこともなかった。


中学時代はテニスに没頭した

中学校の頃は、そんな自分にも少しだけ充実した日々があった。

テニス部の副部長になって、毎日テニスに没頭した。小児ぜんそくもほぼ改善して、体も前に比べれば大分丈夫になってきた。成績はよく、地区で一番優秀な公立高校に推薦で入学することができた。

その当時は、その高校は都会にいけば、誰も聞いたことのないような学校だ、などということは想像すらしなかった。

都内のエリートたちがどんな気持ちで自分と同じ世代を生きていたのかも、知る由もなかった。


また、暗かった、高校時代

そして、高校時代はまた、自分に暗さが戻って来た時期だと思う。

サッカー部やバスケ部のいわゆる“華やか”なクラスメートに、何故か引け目を感じて、閉じこもって過ごしていた。

入学して最初のころ、朝の電車が一緒で(といっても30分に一本しかないので、必然的に同じになるのだが)、たいして仲が良かったわけでもないのに、一緒に登校することになってしまったメンバーが嫌で、毎日憂鬱になったりもした。

女の子の友達も全然いなかった。そんな暗い、閉じこもった高校生だった。

当時はそうは思っていなかったけれど、頭はいいんだぞ、ということしか存在意義が見出だせなくて、真面目に勉強していたのだと思う。

だから、高校三年生のときの受験勉強のときなどは、あまり友達とも交流せず、一人で勉強に没頭した。それでも、もともとそこまで頭がいいわけでもなかったので、東大とか京大とか、そんなところは受験すらできなかった。


⇒大学生時代もいたって“平凡”だった